食のこと
「食害」をどうとらえるの

食べものを育てるときや自然環境との距離が近い生活の中では、「食害」がテーマになることがたびたびあります。
農作物が虫にやられたり、植林したばかりの苗木がシカにやられてしまったり、アユが外来魚に食べられて全然とれなくなったり。一次産業は常に他の生きものの生活圏と隣り合わせだからこそ、「農薬を使うのか使わないのか」、「獣害での殺処分はかわいそうか」などの議論が出てくるのだと思います。
トリカンでは2024年の秋から自社物件の入居者のみなさんと一緒に、薬や化学肥料を極力使わない方法で野菜を育てています。その取り組みの中で10月ごろ、植えたばかりの茎ブロッコリーの苗が虫に食われてしまったことがありました。
そのとき、「食害をどうとらえるか」という問いが改めて浮き彫りになり、最終的には、このような結論にたどり着きました。「虫自体が嫌なのではなく茎ブロが食べられたことが嫌なのだ、という意識の大切さ」です。
子どもとの時間で考えると分かりやすいのかもしれません。
「わたしは子どもが嫌なのではなく、作業や思考を中断されるのが嫌なのだ」「わたしは子どもが嫌なのではなく、疲れているときに大声で泣かれて、自分が責められているように感じるのが嫌なのだ」
そんなふうに、「嫌だ」という気持ちと子どもという存在とを分けるようなイメージだと、「この子のこと嫌だと思ってしまった」と自分を責めずに済んだりします。また、作業の時間をずらしたり、コミュニケーションの取り方を変えるなど、工夫していくこともできると思います。
茎ブロッコリーの虫食いでも同じように、「大切に育ててきたものが弱ってしまう悲しさ」と「虫そのものを否定すること」は分けて考えるという「意識の切り分け」が大切なのかもしれません。
この「意識の切り分け」をしていると、同じ行動も中身が違うものになります。例えば、仮に虫食いがひどくなりすぎて殺虫剤を使うという選択をしたとき、その動機は「虫が嫌だから」なのか、もしくは「自分たちが食べるものを守るため」なのかで、全く違います。ただ単に「天敵が憎いから殺す」という文脈ではなく、「もちろん共生していきたいけど、自分たちの食べものを確保するためには、その手段もある」という、虫の存在自体を受け入れたうえでの対策、という位置づけになるわけです。
一次産業などの社会課題としての食害は、人の暮らしや経済性が深く結びついています。農薬のことも獣害での殺処分のことも、誰かに「こうすべき」と伝えるためではなく、「自分は」どんなふうに自然環境と付き合っていたいのか、という話なのかもしれません。